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蕎麦を食べることを、「手繰る」と言います。蕎麦派の江戸っ子言葉です。
「……何をだ?」
彼は立ち上がりかけた半端な態勢の侭、私に問うた。
「あの手紙の内容を」
などとは言いだせなかった。
だから私は曖昧な言葉を羅列して、なんとか彼を元の座布団の上に戻そうと必死になった。
「それは、何でも良い。ただ、私は、その、君と、話がしたいんだ。そう、話だ。蕪木、私は、君と話がしたい」
カタン、と手に持った空の湯呑みが木の卓とぶつかった。空虚な音だった。我ながら酷い言い分だ、口を噤んでから羞恥と焦燥が心を駆け巡った。
彼はそんな私を見詰めた。私は息を止めた。彼は暫くの後、靜かにゆっくりと、腰を下ろした。
私は息を吐いた。彼にばれない様に、こっそりと。
お互いに目を合わせず、ただ艶やかな卓の表面を見る。彼の湯呑みの辺りにある木目が、笑う女に見えた。私は至極嫌な気持ちになって、其れから直ぐに目を逸らし、彼の臍の近くに目線を動かした。彼の両の手は膝の上にあった。彼が着て居る絣は、限り無く黒に近い千歳紺だった。彼に黒は似合わない。そう思いながら、私は懸命に頭を働かせ、何か喋ることを探していた。然し、彼はもっと明るい色を着れば良いのだ。ああ、そうだ。
「さくら」
私は口を開いた。
「家の近くでは散り始めていたのだけれど、此方は未だ咲いて居無い様だね」
「ああ、早い樹でも未だ三分咲き程度だな」
「そうか。じゃあ幾日か後に此方に来れば私は花見が楽しめるんだね」
「もう済ませたんじゃないのか」
よし、これで良い。
「それがね、今うちの家は父の、女の問題で大揺れでね」
「健勝の証拠だな」
父はつい先日、数えで六十三になった。
「ああ、お陰さまでね。然し有り余りすぎる生気と云うのもね」
私の詰らない冗談に彼は少し笑って、湯呑みに口をつけた。
「然し、大丈夫なのか」
「平気さ。揺れて居ると言っても母が一人で怒って居るだけだからね。花が散り終わる頃には仲直りしてるよ」
「そうか」
彼は湯呑みを両手で弄んでいた。
「そう言えば君、もう昼食はとったのかい」
私は、未だだった。
「ああ食べた」
「手繰ったのかい」
彼は大の蕎麦好きだった。殆ど毎日の様に近くの「緑り屋」という蕎麦屋から店屋物をとって食べて居る。
「いや、うどんだ」
「おや、珍しいね」
「緑りの旦那もそう言っていた」
水分を多く含んだ卓は艶々と光った。蕎麦に対してうどんは私の好物であった。「緑り屋」は蕎麦屋だがうどんも格別に美味い。東京のうどんにしては珍しく汁が辛く無く、また、其れを身に絡めた麺はなんとも優しい味がして、私の気に入りのうどんなのだ。
「然し、彼所のうどんは不味いな」
「まさか!」
私が急にあげた声に、彼は少し驚いた顔をした。
「お前は、あれを美味いと思って食べて居たのか」
「ああ思って居たさ」
「あんなどろどろの腰の無いうどんをか」
小馬鹿にした表情だった。
「其れが美味いんじゃないか」
「そう云えばお前は煮物も芋や玉葱がどろどろになったのが好きだったな」
普段の、彼の顔だった。私は内心嬉々とし乍ら、其の下らない口論を続けた。
「それの何処が悪いんだい」
「別に悪いとは言ってないだろう」
「言ってるじゃないか」
「言ってない」
「仮に言って無いとしても莫迦にはしているじゃないか。君は何時も何時もそうやって私を与太郎だの抜け作などと貶して。君はそんなことが楽しいのかい」
「すまん」
「え」
私の随喜した心が、固まった。今、彼はなんと言った。違う。違うじゃないか。こういう時、彼は興奮した私の怒りを軽くあしらい乍ら土間へ行き、湯を沸かして、私の怒りが下火になってきたところで美味い茶を私に持成す。それが、いつもの彼じゃないか。
「すまん」
彼は、私の瞳を見て、もう一度言った。
カサリ、とポケツの手紙が音をたて、自己を主張した。
やめてくれ。
未だ私は、認めたく、ないんだ。