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その日は珍しく、彼が私の家を訪れた。重たい腹を抱えた細君も一緒の様だった。
「あらまあ、カブラギさん、珍しいわねえ。さあお上がりなすって。奥様もさあ、どうぞ」
母の声が玄関先でした。その時、私は文机に向かっていた。出版社勤めの知り合いが忙しくてやる暇が無いのだと嘆いていた、風見先生の大長編に朱筆を入れる仕事であった。
「護、カブラギさんが来ましたよ、此方へいらっしゃい」
「はい、直ぐに」
私は襖越しに返事をしつつも、机の前を離れなかった。あと数頁で終わるのだ。それを終わらせてから彼に会いたかった。
襖の向こうから声が聞こえる。喋っているのは専ら母だった。
「カブラギさん」と母が彼のことをそう呼ぶのが、私は面白かった。つい最近になって「いつまでも一二三ちゃんじゃあ駄目かしら」と母が自ら思い直して、彼を「カブラギさん」と呼ぶようになったのだった。
私はそれを聞きながら目の前の文字を目でなぞった。
そう言えば、もう丸一日以上、此処に座ったままだ。
頭は当然、ぼんやりとして居た。
気が付くと、私は眠って居た様だった。妙に暖かいと思えば、体の上には半纏が掛けられて居て、そして隣には彼が座って居た。
「あれ………君……未だ居たのかい」
私は重たい頭を動かし乍らそう言った。外はもう日が落ちて居る様だった。
「ああ」
彼は空の湯呑みを弄んで居た。
「百合子さんは」
睡魔が私の唇が動くのを邪魔した。
「先に帰らせた」
「そうか」という私の返事は最早、声には出ることがなかった。
腹の近くにある火鉢の熱が、心地良い。
「体には気を遣え」
眠りを誘う彼の言葉に、私は返答とも呻き声ともとれない声を出して、再び意識を手放した。